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もっと鹿児島が知りたい[5]薩摩本格焼酎の話

監修・写真提供:有限会社 佐多宗二商店

我が国の焼酎づくりは関東以西に集中していて、とりわけ、九州では製造が盛んです。鹿児島県は生産も消費も全国1位です。現在も県内には100を越える本格焼酎の蔵元があります。各蔵元が情熱やたっぷりの思い入れで磨き上げた焼酎は、正に逸品・絶品の名に相応しいものです。 焼酎造りでも清酒同様、酒造り職人(蔵子・くらこ)の長を杜氏(とうじ)といいますが、鹿児島県では川辺郡笠沙町の笠沙杜氏と日置郡金峰町の阿多杜氏が焼酎杜氏として有名で、県外の焼酎造りでも活躍しています。

焼酎は蒸留酒

酒類は醸造酒、蒸留酒、混成酒の三つに大別されます。焼酎は蒸留酒です。醸造酒は果汁や穀物・芋類などからつくった甘酒を発酵させてつくる濁り酒と、その濁り酒を漉して澄ませた酒があります。代表的なものには、うるち米と米麹(こめこうじ)を主原料とする清酒、もち米と麦麹でつくる紹興酒、麦芽を主原料とするビール、ぶどうからつくるワインがあります。

蒸留酒は醸造酒を蒸留したもので、代表的なものは清酒を蒸留したものが米焼酎、ビールからはウィスキー、ワインからはブランデーがつくられます。実際には漉して澄んだ液(酒)を蒸留しても旨みが無いので、漉す前の発酵液を蒸留します。

混成酒は醸造酒や蒸留酒にいろいろなものを混ぜ込んだもので、蒸留酒に薬草・果実・花・砂糖を混ぜ合わせたものがリキュール、ワインに薬草と蒸留酒を加えたのがヴェルモット、焼酎と蒸米・米麹からは白酒、白酒を漉すと味醂となります。代表的なものに焼酎に青梅・氷砂糖をつけこんだ梅酒など、種類が豊富です。

蒸留酒仲間としてのウイスキーやブランデーと、日本の焼酎とはどう違うのでしょうか?

焼酎には五百年前から伝わる伝統製造方法によってつくられている在来式焼酎(単式蒸留機)と、明治時代になって西欧から輸入されたアルコール製造技術(連続式蒸留機)によってつくられた新式焼酎があります。かつては酒税法で新式製法を甲類、在来式製法を乙類と呼んで区別していましたが、在来式製法によってつくられる焼酎は昭和46年(1971年)から本格焼酎と表示されるようになりました。本格焼酎という呼称には伝統に培われた深い味わいを感じさせられます。焼酎の中にはブレンドされたものもありますが、在来式製法の焼酎のみが本格焼酎の呼称をつけることができ、一適でも新式製法の液が入ったものは本格焼酎とは謳えません。

本格焼酎の製法

原 料

さつま芋の選別と皮むき さつま芋の選別と皮むき 焼酎の原材料には米、大麦、蕎麦、甘藷(さつま芋)、黒糖(さとうきび)などのほか、サトイモ、大豆、人参なども使われて、それぞれの風味が生かされた多種多様な焼酎があります。
鹿児島県産の焼酎は、九州地方と屋久島・種子島ではさつま芋が主原料で、薩摩焼酎は焼酎の代表的な呼称でもあります。奄美諸島産の奄美焼酎は黒糖が主原料です。蕎麦や麦などの主原料名が冠についたそば焼酎・むぎ焼酎と呼ばれるものも含めて、焼酎製造にはそれらの主原料のほかに麹として米または麦が15%くらいは使われています。

製 麹

製 麹製 麹蒸した米に麹菌の種子(胞子)を撒いて、37~40度の温度で一晩寝かせると、麹菌が菌糸を出し、蒸米に白い斑点が生じます。さらに、菌の生育が盛んになり、温度が上がってくるので製麹箱に移して風を送り、34~36度に温度を下げます。こうして麹菌の種子を撒いてから40余時間で麹ができ上がります。米の代わりに麦を使うこともあります。
焼酎の麹と清酒の麹は種類が異なります。清酒用の麹はうぐいす色の胞子をつける黄麹菌、焼酎に使われる麹菌は黒麹菌(黒褐色の胞子をつけ、沖縄では泡盛菌と呼ばれる)の胞子が白く変わった白麹菌が使われます。
白麹菌が使われた九州産の焼酎は味にほのかな甘味があって軽快な感じがします。黒麹菌を使うと逆に重厚な感じの味になります。最近、黒麹菌を使う焼酎が見直されてきているようです。

発 酵

発 酵発 酵焼酎は麹と水だけで仕込まれます。清酒の場合は味米(みまい)といって蒸米を加えますが、焼酎は蒸米を使わないので麹の酸が薄められず、雑菌混入による失敗が少なくなります。麹に水を加え、培養焼酎酵母か既に発酵している一次醪(もろみ)を加えると発酵が始まります。麹菌が蒸米の中で増殖する過程で作り出した酵素の働きで、麹の澱粉がぶどう糖に分解され、そのぶどう糖を焼酎酵母が食べて増殖し、同時にぶどう糖をアルコールと炭酸ガスに変化させていきます。
こうしてできたのが一次醪です。薩摩焼酎はこの一次醪に主原料のさつま芋(他県産焼酎では米、麦、蕎麦など)と水を加えます。良い品質の焼酎づくりのため、さつま芋は一本一本丁寧に洗われ、傷があれば取り除かれます。厳選されたさつま芋を蒸かしてから風をあてて冷却し、砕いて一次醪と水を加えて二次醪用タンクに仕込みます。すぐに発酵が始まり、温度も上昇します。冷却しながら7~8日くらいで発酵が終了します。

蒸 留

蒸 留蒸 留蒸留酒は原料をアルコール発酵させたあと、加熱して沸騰させ、蒸発して出てくるアルコールやその他の揮発成分を含む蒸気を冷却し、凝縮してつくります。
装置は発酵醪(もろみ・蒸留してまだ糟(かす)を漉していない状態)を入れる蒸留缶、沸騰する蒸気を冷却槽に導く導管、蒸気を冷却するための曲がりくねった管(蛇管)から構成された簡単なもので、単式蒸留機(ポットスチル)と呼ばれます。この単式蒸留機で取れた焼酎を再び蒸留缶にいれて加熱し、蒸留と冷却を繰り返すとアルコール度数が高くなります。
現在使用されている標準的な蒸留機は蒸留缶に二次醪を入れ、ボイラーからの蒸気で加熱し、醪が沸騰するまで焦げ付かないように攪拌します。沸騰した醪から蒸気が立ち上り導管を経て冷却水槽で冷やされて、液体になります。初めに出てくる液体は初垂(はなだれ・初留)といってアルコール分が60%を越えるほどに度数が高く、別扱いとされます。初垂の次ぎが本垂(ほんだれ)といって、これが焼酎です。
蒸留を続けていると抽出される液体のアルコール分がどんどん低くなり、蒸留中の焦臭物質も混じってくるので、アルコール分が10%を下ると末垂(すえだれ・後留)として別にされます。

貯 蔵

貯 蔵麦を原料にした蒸留液を、シェリーを貯蔵したあとの空き樽に蓄えて寝かせるとウィスキーになり、ぶどうを原料にした蒸留液を良質の白樫の樽に長く貯蔵したのがブランデーになります。両方とも琥珀色になります。
焼酎は素焼きの甕に貯蔵されていました。現在はタンクに貯蔵しますが、蒸留したての焼酎は味が荒く、煙の臭いがあり、穀物の油で白濁しています。タンクに貯蔵して煙臭の消えるのを待ち、表面に浮いた油分を除去し、更に数ヶ月貯蔵します。味が丸くなってきたらブレンドして味を整え瓶詰めにして出荷します。甕に入れて、何年も熟成させた焼酎は正に逸品です。
貯 蔵貯 蔵


焼酎の伝来

中世ヨーロッパでは盛んに錬金術、即ち、いろいろな金属・科学物質を混ぜ合わせて金を作り出す研究が盛んでした。勿論、どんなに工夫をしても金を作り出すことはできませんでした。

1250年、フランスの錬金術師アルノー・ド・ヴィユヌーヴは「ワインやワインの絞り糟を蒸留するとワインの精が抽出され、これを飲むと命を永らえさせることができる。オー・ド・ヴィ(命の水)と呼ぶに相応しい」と書き残しています。金を作ることには失敗したが、不老長寿の薬を作ることには成功したと思ったのでしょう。

ブランデーがオー・ド・ヴィと言われたのは、ワインを蒸留して初めに抽出される液体(初垂)のアルコール度数が非常に高いことにありました。これを飲めば体が衰弱した人でも、アルコールが体中を巡ってカーっとなり、生気が蘇ったようになったからです。「命の水」のほかに「火の水、黄金の水」などとも呼ばれました。西欧で、蒸留酒が醸造酒に比べてアルコール度数がはるかに高く、いわゆる強い酒であることが認識された例と言えます。

同時期、1270年、マルコポーロがシルクロードを経て現在の北京に達しています。有名な「東方見聞禄」には、「西欧ではワインが飲まれているがアフガニスタンでは蒸留酒が飲まれていて、人々は暇さえあれば酒盛りをしている」と記しています。しかし、中国での蒸留酒のことには全くふれていません。シルクロードを伝わって中近東の文化は東方に運ばれていたはずですが、13世紀の中国では蒸留酒・焼酎はまだ一般には飲まれていなかったことが伺えます。また、11世紀の中国・北宋の田錫(でんしゃく)という人が、シャム国(現在のタイ)には2~3年地中に寝かせた蒸留酒があり、それが強い酒であることを書き残していますから、当時、中国には焼酎が無くても東南アジアにはあったものと推測されます。蒸留酒は西洋から伝わったものではなく中近東・東南アジアで独自に生まれていたと考えられます。 そして、14世紀に入ると中国に蒸留法が南方から伝えられたという記録が残っています。

15世紀に入ると東南アジア諸国間で蒸留酒が交易品として輸出入されるようになりました。当時、西欧では蒸留酒はまだ一般には飲まれてなく、スペイン・ポルトガルの船が東洋に乗り入れたのが15世紀末であることから、東南アジアの国々・琉球・朝鮮・中国の人々や倭寇といわれた日本人武装貿易船団によって、焼酎が運ばれたものと考えられます。

薩摩半島の坊津は奈良時代の遣唐使船の港で、15世紀に入ってからは、足利幕府の明・琉球貿易の中継基地でもありました。薩摩と大隈の各港は14~15世紀に中国沿岸を荒らしまわった倭寇の根拠地でもあり、特に坊津と川内(せんだい)川河口の京泊は有名です。これらのことから薩摩に中国や琉球を経由して東南アジアの蒸留酒が伝えられた機会は多かったものと思われます。

応永11年(1404年)正月と応永14年(1407年)に朝鮮の太宗から対馬領主宗貞茂へ焼酎が送られましたが、これが日本に焼酎が初めて伝えられた記録となっています。また、シャムからの交易船が頻繁に琉球那覇を訪れていて、15世紀中頃には焼酎製造機も製造方法も伝えられ、琉球泡盛の製造が始まっていたものと推測されます。

種子島に鉄砲が伝来してから3年後の天文15年(1546年)、薩摩を訪れたポルトガル人ジョルジュ・アルヴァレスが揖宿郡山川町に滞在して、焼酎が飲まれていたという記述を残しています。九州本土に米の焼酎が存在したことの初めての記録です。その13年後、永禄2年(1559年)には大口市で焼酎が庶民の酒として飲まれていたという資料が残されています。大口には、薩摩大隈の北部を領有していた菱刈氏始祖の重妙が建立した郡山八幡があり、弘治3年(1558年)蒲生城の戦いで島津氏に敗れた菱刈重豊は翌年の永禄2年に郡山八幡の社殿を改修しました(国の重要文化財)。その時、作業にあたった大工2人が社殿の棟木札に日付・署名入りで「座主がケチで、1度も焼酎を飲ませてくれなかった」と落書を残しています。(大口市には焼酎資料館があります)。

文明10年(1478年)の琉球から綾船(あやぶね)といわれる官貢船が初めて到来した時から、アルヴァレスが山川町で米焼酎を見た天文15年(1546年)までの間は、琉球と薩摩の間に貿易船や外交文書を運ぶ船が何度も往来していることから、多くの薩摩人が琉球で泡盛を作る現場を見学できたわけで、薩摩焼酎のルーツは琉球にあるといえます。

嘉吉元年(1441年)、室町幕府6代将軍足利義教は形式上のことではありましたが島津忠国に琉球(沖縄県)を与え、これを契機に薩摩国は琉球貿易の独占権を得ます。その後、薩摩と琉球の友好関係は失われていき、慶長14年(1609年)に島津氏が琉球に出兵した後、琉球は島津氏に間接的に支配されました。

こうした出来事が琉球から薩摩への焼酎製法の伝播に弾みをつけたものと思われます。しかし、焼酎の製法は島津氏が権力によって九州本土に持ってきたものではなく、まだ友好関係にあった15世紀後半から16世紀中頃の間に交流のあった人々によって蒸留原理と蒸留機の構造が伝えられたものと考えられます。

16世紀前半には薩摩で焼酎がつくり始められ、米の麹を唯一の原料とする琉球泡盛は本土九州に伝えられると、酒粕、甘藷、麦などのほか、雑穀を原料として多種多様な焼酎が生まれていきました。

薩摩焼酎の誕生

焼酎が伝えられた当時、戦国時代末期、薩摩には赤褐色の味醂のような酒がありました。清酒の一種で、醸造した酒を絞る前に樫・椿などの灰を入れたもので、酸味が中和されて甘くなり、色が赤褐色になりました。濁り酒もあり、諸白といわれる精白米を使った白濁の酒と、粗白米・玄米を使った色の薄黒い味の辛く酸っぱい酒がありました。薩摩の人々は酒の醪を蒸留すれば焼酎になることを知ってから、初めのうちはこれらの地酒を蒸留して焼酎をつくっていたものと思われます。

さつま芋畑 さつま芋畑 薩摩は火山国で、桜島や開聞岳からの火山灰が積もった土壌は稲作に不向きで、島津藩は常に米不足に悩んでいました。藩内の物産を他藩で米に替えて不足を補っていました。慶長17~18年(1612~3年)に米の代用食品として、甘藷(さつまいも)がルソン(フィリピン)から坊津町に伝えられたといわれます。甘藷は鹿児島では唐芋(からいも)と呼ばれます。

島津藩の記録では、元禄11年(1698年)、琉球王尚貞から種子島彈正久基に甘藷が送られ、種子島の石寺野で栽培されたのが伝来の初めとされ、当地には碑も建っています。この記録とは別に、宝永2年(1705年)に山川郷の漁夫前田利右衛門が琉球へ密航して盆栽にした甘藷を持ち帰り、栽培して種芋を育て普及させたという資料が残っています。

甘藷の伝来が正確にいつのことであったかはともかく、米不足の薩摩で、琉球から伝わった蒸留酒の原料に煮米のかわりに煮甘藷を使用するのは当然の成り行きでした。米麹と煮甘藷と水を一度に甕へ仕込む「どんぶり仕込み」は大正時代の初めまで続いていました。米のかわりに甘藷を使い、強い酒を生み出す唐芋焼酎づくりは急速に普及し、天明3年(1783年)には島津領内に3000軒の焼酎屋があったといわれます。

奄美の黒糖焼酎の誕生

現在、奄美でつくられる黒糖焼酎の原料となる砂糖黍の栽培が始められたのは、慶長15年(1610年)とも元禄3~4年(1690~1年)ともいわれますが、元禄8年(1695年)には島津藩から砂糖黍の植付け・栽培・製糖を監督する役人が配置されています。

薩摩藩は、藩の財政が逼迫してきた文政年間(1818~1830年)頃から年貢として黒糖を一人当り120kgも上納させたのですから、黒糖を焼酎の原料に回すことなどはできませんでした。砂糖黍畑を広げ、作り出した黒糖はほとんどが徴集されるのですから、人々の生活は困窮を極めていました。 一方、薩摩で焼酎の原料となった甘藷が奄美諸島に伝えられたのは、甘藷が琉球に伝来したのと同時期の17世紀であったと思われます。甘藷は人々の食生活に深く馴染んでいきましたが、専ら生きるための食用であって、よほどの豊作でもない限り焼酎づくりに使うほどの余裕はありませんでした。

薩摩藩は島民の酒づくりには寛容で、神事のための米を原料にした焼酎もありましたが、米の代わりに椎の実、蘇鉄の実、粟なども使われていました。

黒糖が焼酎の原料に使われ始めたのは第二次世界大戦末期の頃からです。大戦中に本土から来た日本兵が教えた簡便な焼酎製造法をもとに、戦後の米軍占領下で黒糖を原料とした焼酎の密造が盛んでした。沖縄に先だって奄美諸島が日本に復帰した昭和28年(1653年)に、奄美諸島に限って麹を使い黒糖を原料とした焼酎の生産が認められました。

焼酎と健康増進の良い関係

最近、焼酎が健康に良いとさかんに言われるようになりました。医学的因果関係は明らかになってはいませんが、統計上では焼酎を全く飲まない人よりも、焼酎を2日に1回くらい、1日に1合以下を飲む人のほうが、癌による死亡率が低くなっています。また、焼酎は血栓症の予防にも高い効果があることがわかっています。血栓症予防に高い効果がある酒類ということでは赤ワインの人気が高いのですが、焼酎のほうが赤ワインよりも予防効果が高いことがわかっています。適量の焼酎を飲むと、血液中の血栓が分解されるので、心筋梗塞や脳血栓の予防に良いとされています。 言うまでもありませんが、適量を飲むから健康に良いのであって、毎日のように多くの量を飲み続ければかえって健康を損ねるのは他の酒類と同じです。

鹿児島で地酒といえば「本格薩摩焼酎」です。アルコール度数が20度、25度、30度などがあり、お湯で割って飲むのが一般的飲み方です。昔の人は囲炉裏端に座り、薩摩焼きの黒茶家(じょか)という土瓶に焼酎と水を入れて囲炉裏の火で暖めて飲みました。今では、代表的飲み方である焼酎とお湯を6:4の割合にしたり、好みによって焼酎濃度を変えたり、梅干などを加えてコップで飲みます。勿論、オンザロックもいいし、ソーダ類で割ってもカクテルにしてもいけます。
皆さんも適量の焼酎を楽しんで、健康な毎日をお送りください。

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